労働価値説批判

economy/0888 / 20 レス / 2004/02/27〜2004/08/24

1 :山:2004/02/27(Fri) 20:32
私の労働価値説(注1)についての疑問を提示します。

まず、労働価値説について書いてある一般的によく知られた二つの書物から引用します。

アダム・スミス『諸国民の富』より

「資本(stock)の蓄積にも土地の私有化にも先だつ社会の初期未開状態においては、異なる物を獲得するために必要な労働量の比率は、これらの物をたがいに交換するための何らかの規則を与えうる唯一の事情であるように思える。
例えば狩猟者たちの民族の中では、ビーバー1匹を殺すためには、鹿1頭を殺すために要する労働の2倍を要するのがふつうだとしたら、ビーバー1匹は当然に鹿2頭と交換され、つまり鹿2頭に価するに違いない。
ふつう2日または2時間の労働の生産物である物は、ふつう1日または1時間の労働の生産物である物の2倍に価することは当然である。」(P.47.(1)185ページ)
2 :名無しさんの冒険:2004/02/27(Fri) 20:33
レーニン『国家と革命』より

引用開始
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★   三 共産主義社会の第一段階
(中略)

  「ここで」(労働者党の綱領を検討するさいに)「問題にしているのは、それ自身の基礎のうえに発展した共産主義社会ではなくて、反対に、資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会である。だからこの共産主義社会には、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも精神的にも、この社会が出てきた母胎である旧社会の母斑がまだくっついている」〔選集、第一二巻、二四一ページ〕。
 マルクスが、共産主義社会の「第一」段階あるいは低い段階とよんでいるのは、資本主義の母胎からこの世に出てきたばかりで、あらゆる点で旧社会の母斑のくっついているこの共産主義社会のことにほかならない。
 生産手段はすでに個々人の私有財産ではなくなっている。生産手段は社会全体のものである。社会の各成員は、社会的に必要な労働の一定部分を遂行して、これこれの量の労働を給付したという証明書を社会から受け取る。この証明書で、彼は消費手段の公共の倉庫から、それに相当する量の生産物を受け取る。したがって、各労働者は、共同の基金にあてられる労働量を控除したうえで、彼が社会に与えただけのものを社会から受け取る。

(中略) 「等しい量の労働に等しい量の生産物を」――この社会主義的原則もまたすでに実現されている。けれども、これはまだ共産主義ではない。

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引用終了
3 :名無しさんの冒険:2004/02/27(Fri) 20:34
2つ目のレーニンの引用では、社会主義社会の経済システムは、貨幣を使用せず、等量の労働と等量の生産物を交換すると書かれています。
マルクス経済学では、資本主義経済における市場価格は、その商品に費やされた社会的必要労働時間を中心として変動するという価値法則が貫徹されていると考えています。
このような法則があると考えるからこそ、マルクスやレーニンは価格のような変動を伴わない直接の労働量に応じた交換システムの方が市場経済よりも優位性が発揮できると考えたのでしょう。
しかし、20世紀のマルクス主義国家は、数千万人以上の餓死者を出すという悲惨な結果を生みました。
この悲惨な結果は、上記のレーニンのような理論的誤りからきています。
労働価値説の、もともとの原理的主張は、商品の生産に投下された労働価値の比率と商品の交換比率(価格)とが一致するという考え方です。(注2)
しかし、マルクス自身は労働価値比率と生産価格比率の一致の可能性の追求は却下し、「総労働価値=総生産価格」と「総剰余価値=総利潤」の二つの関係の成立可能性(総計一致二命題)を探求したに過ぎません。
労働量とは、マルクスのいう抽象的人間労働によって測られます。
労働量を測定する基準である抽象的人間労働とは、人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出のことです。
労働量は、労働時間によって測られますが、生の労働時間では、労働の強度や労働の熟練度が異なるためにそのままでは使用できず、統一の度量単位に基づいて労働時間を還元し直す必要があります。
4 :名無しさんの冒険:2004/02/27(Fri) 20:35
労働の強度とは、時間あたりの労働量のことです。
労働の熟練度とは、人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出(労働量)が一定の条件で労働の成果が異なる度合いを表します。

スミスの上記の議論を生産過程において労働のみが生産要素として投入されるような経済社会とします。

これまでの数理マルクス経済学の世界では、生産過程において労働のみが生産要素として投入されるような経済社会(上記のスミスの議論)では、労働価値比率と生産価格比率が一致するという前提で議論がおこなわれてきました。
しかし、私は、生産過程において労働のみが生産要素として投入されるような経済社会でも労働価値比率と生産価格比率とは一致しないと考えます。
以下に議論を展開してみます。

アダム・スミスは、交換の説明として比較優位説を唱えました。

『経済学の原理―マルクス経済学批判・近代経済学の是正』 金子甫著 文眞堂 1995年 P112より引用

引用開始
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人々が何らかの交換関係を結ぶのは、自給自足をするよりも交換に参加する方が得だからである。この交換の利益は、労働にかんしては、スミスが述べたように何らかの有用物を
「自分でそれを作ろうと試みたならば費したであろう労働量よりもはるかに少量の自分自身の労働の生産物で購入する」(P.356.(2)420ページ)ということである。
つまり、交換がおこなわれるためには、すべての参加者が自分の労働を短縮するー言いかえれば、自分の同じ労働時間でヨリ多くの有用物を得るーという利益を得なければならない。

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引用終了
5 :名無しさんの冒険:2004/02/27(Fri) 20:35
この比較優位の考え方をもって労働価値説を検証してみます。
最も単純な社会の構成員が2人のみ、生産される商品が2つというモデルを考えてみましょう。

AさんとBさんのビーバーと鹿の捕獲時間を以下のように仮定する。

Aさん  ビーバー1匹 2時間   鹿1頭 1時間

Bさん  ビーバー1匹 16時間  鹿1頭 2時間

(以下、匹、頭は表示しない。)


1.比較優位説による交換

Aさんがビーバーを1供給するのに対し、Bさんが鹿を2より大きく8より少ない範囲で供給するならば、双方が利益を得て比較優位説に妥当する交換比率である。

一例として、Aさんのビーバー1とBさんの鹿4が交換される場合を考えてみよう。

Aさん
交換して手に入れる物を自給自足した場合の時間(以後、自給自足と表記する) 4時間
交換で相手に渡した物を捕獲するのに要した時間(以後、交換と表記する)   2時間
交換後の労働時間の損失(自給自足-交換) +2時間

Bさん
自給自足 16時間  交換 8時間  交換後の労働時間の損失 +8時間

よって、この例では、Aさん、Bさん双方共労働時間を短縮している。
6 :名無しさんの冒険:2004/02/27(Fri) 20:36
2.労働価値説による交換

スミスの引用文に基づけば、労働時間を単純に比較したとしても何の問題もないと考えられるが、労働価値説の定義に関する見解の相違を考慮して、誤解を避けるために、2人がおこなう労働は、労働の強度、労働の熟練度が共に一定で、同質・同等であり、人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出(労働量)の内、Aさんが1割多く脳髄の生産的支出を増やしているために上記の労働成果の差が表れていると仮定します。

Aさんのビーバー10とBさんの鹿11が交換される場合。

この交換の場合、Aさんの生の労働時間は20時間であり、Bさんの生の労働時間は22時間です。
投入された労働量が多いAさんの労働時間に1.1の還元率をかけます。
20×1.1=22
この交換の場合、Aさん、Bさんの還元された労働時間は共に22時間であり、交換される物の価値は同じである。

Aさん
自給自足 11時間 交換 20時間  交換後の労働時間の損失  -9時間

Bさん
自給自足 160時間 交換 22時間  交換後の労働時間の損失 +138時間
7 :名無しさんの冒険:2004/02/27(Fri) 20:37
2の労働価値説による交換は、Aさんが労働時間を短縮することが出来ず、比較優位説に妥当する交換例とは言えない。
このモデルでは、労働価値説による交換が必ずしも比較優位説の妥当する範囲に収まるとは限らないということが分かります。
このことは、労働価値説による交換はBさん達がそうしようとしても、Aさん達が交換を拒否して自分で鹿を捕獲し始めるから成立しません。
従って、Aさん達、Bさん達、両グループが理性的に行動すれば、比較優位説の妥当する範囲で交換が行われ、いつまでも労働価値に応じた交換比率にはなりません。
ところが、このような議論は、社会的必要労働での交換の例としては適切でないという批判もありえます。
しかし、マルクスの社会的必要労働の議論は、スミス等がとなえた純粋の投下労働価値説とは異なった議論です。

結論
これまでの数理マルクス経済学の世界でおこなわれてきた生産過程において労働のみが生産要素として投入されるような経済社会では労働価値比率と生産価格比率とは一致するという考え方は誤っている。
単純労働の世界でもほんのちょっとした脳髄の生産的支出によって労働成果は大きく異なるからである。
8 :名無しさんの冒険:2004/02/27(Fri) 20:38
注1.
正確に言えば、アダム・スミスは支配労働価値説と投下労働価値説を、リカードやマルクスは投下労働価値説を主張しました。
従って、正確に言えば投下労働価値説と表現すべきですが、一般的には労働価値説という表現は投下労働価値説という意味で使われる場合もあるので、論文内では労働価値説と表記しています。
また、スミスの引用文は投下労働価値説を主張した部分です。

注2.
古典派における価格論では、短期的に日々変動する市場価格と長期的に市場価格の重心として市場価格を規定する自然価格とを分けて論じています。
アダム・スミスは、生産費が自然価格を決定するという生産費説を採っています。
その上で、社会の初期未開状態においては労働価値説を主張しています。
他方、リカードは、生産費説を採りながらも、生産費は労働量と比例関係にあるから労働価値説は初期未開状態以外でも適用されると主張しました。
結局、スミスとリカードは、いずれも生産費を媒介にしつつ労働価値の比率と価格の比率とが一致すると主張しているのです。
本文ではこのような点を省略して論じていることに、ご留意願います。
9 :第三の道は選択性:2004/02/28(Sat) 02:11
★イデオロギーの終焉⇒パラダイムの設計へ★
不況の原因http://mmcnn.hp.infoseek.co.jp/data/sonota/fukyo.png

不況の原因から精神的な不況の構造を見直すと、やはり生き方が示されていない…イデオロギーの問題に戻ります。いままでイデオロギー対立の答えが放り置かれたまま第三の道という言葉がささやかれたが、これがマズイ。
しかしここにきてようやくこの日本から真に革新的なアイデアが出始めた。より格差をもつ税タイプとより平等である税タイプが選択可能になるかもしれない。共産党も解散できる。全体化・統制化ではなく、まったく個人個人の意思によって格差と平等は選ぶことができる。
所得税にオプションとして選択性税率を導入しようという発想がある。それを保酬制度という。
http://mmcnn.hp.infoseek.co.jp/hs.html
10 :名無しさんの冒険:2004/02/29(Sun) 13:47
ご苦労・・・・
11 :赤い眼鏡:2004/03/03(Wed) 21:20
失業の形態

季節的失業とは、
“季節によって定期的に発生する失業”をさす。
摩擦的失業とは、
転職途上にある人々が一時的に陥る状態である。
構造的失業とは、
“経済の構造変化によって生みだされる失業”をさし、
新たに創出された職業が、
“衰退した職業とは異なる要件を必要とする”ために生じる。

景気後退のとき増加し、
好況のとき減少する失業は
“循環的失業”と呼ばれる。

政府の政策は、
この種の失業の原因となる
“不況の頻度”と、その大きさを減少させることによって“循環的失業”を減らし、
また
一時的に職を失った人々に保障を与えて、
失業の影響を和らげようとするものである。

>>01-09よ、

FUCK OFF!!!!
12 :名無しさんの冒険:2004/04/10(Sat) 20:03
あげ
13 :名無しさんの冒険:2004/04/26(Mon) 01:21
1の山とは山形浩生しでは?彼の掲示板かなんかで似たような書き込みがあったようなないような・・・誰にも相手にされてない・・・
14 :名無しさんの冒険:2004/04/26(Mon) 09:42
ちがうって。
山形広報部とか、日本茶(wでも見かけたけど別人だよ。
15 :名無しさんの冒険:2004/06/20(Sun) 00:53
支配労働価値説と投下労働価値説はどうちがうのですか?
16 :名無しさんの冒険:2004/07/11(Sun) 16:05
>15
古典派やマルクスを扱っている経済学史のテキストなら、大体書いてあると思うが。
17 :とふかふ:2004/08/01(Sun) 08:39
>>1さんは、JCP-Watchというサイトに寄稿していたけど、その労働価値
説批判は、批判になっていないことを徹底的に指摘されていたね。
18 :とふかふ:2004/08/01(Sun) 08:41
それは、一言で言って、「社会的=平均的労働」というものを氏は理解していない
ということ。アホらしいのでsage。すいません。
19 :1:2004/08/21(Sat) 17:18
>>17
JCP-Watchは見ていたし、今もみることができるけれど
批判になっていないと徹底的に指摘などされていないよ。
とふかふさんは、まさか労働価値説が正しいと考えているのだろうか。
労働価値説自体が証明されてもいないし、証明することもできないものなのに、
正しいと考えているのならば、学問ではなく、宗教のようなものではないだろうか。
20 :名無しさんの冒険:2004/08/24(Tue) 23:23
「労働価値説は循環論法だ!詐欺!」

「循環論法でも連立方程式なら矛盾なくモデリング出来る」