どうでもいいんですが。

economy/0138 / 31 レス / 2000/12/10〜2005/02/14

1 :名無しングエルス:2000/12/10(Sun) 02:38
皆さん勉強してて突然気だるくなったりしませんか。
「あぁ~~やってらんねー」とか、「ぐぉ~~全然わかんね~~」とか
「やっぱ俺って才能ねーわ」とか。
そんな時どうしてます?
私は経済学者の顔写真を眺めたりしてます(笑)。
「この人たちもいろんな壁を乗り越えてきたからこそ、なんだな。」みたいに思って。
その後続きを始めてもやっぱりわからんもんはワカラン。
29 :すりらんか:2001/02/06(Tue) 19:01
>経済学は繰り返し似たような思考結果を、「研究」と称して焼き増しする
>よりは、教育面に力を注いだほうがよいように思われるのですが、
こう思うことはないことはないですが,(自称でも)自分なりに突き詰めた「研究」
をやってないと思考の切れは鈍るんですよ.ついでに,同じような方法論から導いた
ものはなんであれ同じ,とは私は思わないですしね.
30 :へなへな@15chが一番:2001/02/06(Tue) 22:23
経済学とその他の実学の違いを考えてみます。

たとえば、航空機を作るのに、
公理主義的な理論だけでは、航空機はたぶん飛ばないでしょう。
理論にくわえ、たくさんの実証があって
初めて設計の理論ができると思うのです。

つまり、理論と実証の統合が常に要求されます。
どんなに美しい理論でも反証が出れば棄却されなくてはなりません。

しかし、経済学の場合では反証という考え方が、理論に適応されにくい
ようにおもうのです。
(素朴な実証主義が科学論で否定されていることはわかってます。
しかし、経済学では素朴な実証主義以前としかおもえないので)

もちろん、実証というレベルとは別に、特徴を浮き彫りにするために、
デフォルメしたモデルは大切だと思います。
しかし、デフォルメしたモデルを現実にそのまま当てはめようとするのは
まずいのではないでしょうか?
(単純な規制緩和論からRBCにいたるまで)

特徴を浮き彫りにしたデフォルメのモデルと、
現実をできるだけ描写したり、
予想するモデルは根底から思想が違うと思うのです。

そのあたりの混乱が経済学無力論と関係しているようにおもいます。
それを克服するには、
まずこの二つを峻別し、利用方法が違うことを認め、さらに
理論と実証の統合のため「素朴実証主義からはじめる」
必要があるようにおもいます。

(さらに、経済学の理論の美しさに引かれて大学院に進むひとが結構います。
そういうひとは、あまり現実とのずれのような疑問をほとんどもたないようです)

外野の無責任発言ですが、平にご容赦
31 :すりらんか@15chで逝こう:2001/02/06(Tue) 22:59
素朴な実証的観点(というかデータを見ること)は本当に大切だと思
います.別スレで統計的知識のなさを露見させている私ですが,こん
なこっちゃアカンよなぁ.そしてそこから1歩すすむとデータを論理
的に組み合わせて(ここで経済学「的」思考が必要),現状の分析が
出来ること……ここまで達してればホント立派なエコノミストだと思
います.とりあえずの私の目標ですね.

ただ,モデル組んで何か自分のイイタイコトを導くのに快感がないと
いったら嘘になるけど,ヒドイ実証(まぁそうなるであろうデータを
使ってまぁ予想通りの結論を出したってかんじのヤツ)には少なくと
も「やっぱそうなんだ」という程度の意味はある,という点でももっ
と実証を重要視してもいい気がするんですよね.
32 :へなへな:2001/02/06(Tue) 23:31
なんかはじめのはなしからずれているので、ちょっと軌道を戻して。

疲れたときの対処法

CDを聞く。

岡本真夜 「tomorrow」
「涙の数だけ強くなれるよ、
アスファルトに咲く花のように
見るものすべてにおびえないで
明日はくるよ君のために♪」

大事マンブラザーズバンド 「それが大事」
「負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くこと
だめになりそうなときそれが一番大事♪」

なんかをオートリピートで聞きます。
33 :すりらんか:2001/02/06(Tue) 23:42
>へなへなさん
確かに.うわ~それにしても懐かしいのだしてきましたね.

肉体的疲れに対しては,
風呂に入る→風邪薬とリポDを飲んで→10時間寝る
精神的な疲れに対しては
時代劇小説(痛快ものとか)を読んで寝る

だなワシの場合.
34 :へなへな@15chが一番:2001/02/06(Tue) 23:59
>確かに.うわ~それにしても懐かしいのだしてきましたね.
強烈なポジティブシンキングのうたって最近ないみたいなので・・・。
なお、上のアルバムはオークションで探しました。
2chで元気の出る歌という、スレであがってたので探してきたのです。

あと、私の場合、イナゾウさんが「坂の上の雲」をあげてましたけど、
いわゆる偉人伝いいですよね。
私は評伝大好きなのですが、最近読んでよかったのは、
「鼠」城山三郎 文春文庫
昭和恐慌で倒産した鈴木商店(三井、三菱をこえる商社だった)の金子直吉
の話です。

伝記でなく
癒し系だったら「世界で一番の奇跡」オグ・マンディーノ PHP。
(1999出版なのに、もう品切れなので英語で)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0553279726/ref=ed_oe_p/249-1311554-0355524
感動の一冊です。700万部ぐらいでたとか。

彼の本を日本語で読みたければ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569606180/qid=981471064/sr=1-2/249-1311554-0355524
でしょうか。

彼の本は涙腺を狙い撃ちしてくる感動の作品です。
35 :Gerard Debreu[Gerard Debreu]:2001/02/07(Wed) 01:02
来てみたら本題に戻ってるようなので、話蒸し返すのもなんですが。
>政策と理論につよい相関がないのであれば、なぜ理論を学ぶのですか?
私が「『ゆるい』関係」と言ったのは相関の強弱という意味ではないのでして。
たとえば中山伊知郎や下村治は経済理論に則って政策を考えていたでしょうが、
経済理論を直接適用していたわけではないと思います。

特定のモデルというのは、結局のところ限られた要素しか考慮してません。
だから現実に直接適用しようとするのは危険です。
しかし全ての要素を考慮してなおかつ経済原則に則った政策決定を行うためには、
枠組みとしての経済学的思考が必要でしょう。(その意味で「ゆるい」)
諸要素がどのような効果を持つかということについての研究の蓄積が意味を持つのも
それによってでしょう。

確かに経済学部はもっと教育に力を注ぐべきでしょう。
ただツールメーカーと実証屋ってのも一定数必要なんですけどね。
経済学自体、終わってるわけではないので。
36 :新世紀名無しさん:2001/02/07(Wed) 02:02
大学を中心とする経済学の研究の流れと現実の経済政策との乖離
がテーマになってるようですが、私はこれについてはそれほど真剣になっても
仕方ないと思ってます.むしろ真剣になればなるほど何か本当の事態を
認識しそこなうのではないかと思います.
理論&実践の2項対立で事態を捉える方法は他の分野でもありふれてて、
例えば文芸批評について東浩紀は述べてます.
37 :新世紀名無しさん:2001/02/07(Wed) 02:04
「90年代の文芸批評は一言で言えば、アカデミズムとジャーナリズムへの
激しい二極化で特徴付けられていた.一方で批評のアカデミズム化は大学の
文学研究者達に担われ進行してきた.彼らの文章は『批評空間』や『現代思想』の
ような思想誌の動向と密接に関係し書かれている.この種の仕事は確かに高い
知的緊張に支えられているが、残念ながら、いまや社会的効果を失っている.
あるいはその意図的な無視の上に成立しているといってよい.
(中略)
38 :新世紀名無しさん:2001/02/07(Wed) 02:05
他方で批評のジャーナリズム化は職業的な文芸批評家によって担われてきた.
福田和也や斎藤美奈子に代表されるその傾向は、逆に、上述したような学問的意匠への
反発を背景に登場している.彼らの仕事は社会的効果への強い自覚に支えられて
いるにもかかわらず、あるいはそれゆえに、批評文そのものの知的緊張を半ば
意図的に欠いている.しかしこの両者は単純に対立しているのではなく、
相補的な役割を担って共存している.2つの批評の棲み分けは例えば
左翼知識人浅田彰と右翼福田和也の関係を考えれば分かりやすい.
(中略)
39 :新世紀名無しさん:2001/02/07(Wed) 02:06
メッセージ的強度とメディア的戦略、アカデミズム対ジャーナリズムという
棲み分けの構図はいったいなぜかくも強力に機能しているのか.
この棲み分けは日本の文芸批評が伝統的に抱えてきた問題と深く関係している.
それは思考と日本語の関係を巡る問題である.
事実この国の哲学的言説は今にいたるまで難解だと非難され敬遠されている.
言い換えれば日本の哲学は、ものを考えるための日本語をいまだ適切な形で
提出したことが無い.そしてここで重要なのは、日本の文芸批評が小林以降長い間、
まさにその空隙を生める役割を担ってきたと思われることである.」
40 :新世紀名無しさん:2001/02/07(Wed) 02:09
いいたいことは、
経済学研究と実際の政策議論との「乖離」をことさら問題視して整理したとたん、
それは他の分野でも見られるありふれた、日本の言説特有の見覚えのある2項関係に
落ち着いてしまう.

そしてそういった経緯自体が私には何か不自由なことに感じられます.

大量レスすみません
41 :新世紀名無しさん:2001/02/07(Wed) 02:11
>大学を中心とする経済学の研究の流れと現実の経済政策との乖離

そういうのって政治経済学で研究されてません?
MaskinとかDixitとか。
42 :新世紀名無しさん:2001/02/07(Wed) 02:39
36さんのいうように「真剣に考えてもむだ」ということで、
理論と実際がおのおのをあまり省みずに研究が進むのもいかがなものかと思います。
2項関係も止揚によって次々に新しい枠組みをぶつけ合うことが可能なはず。
ところで、
・特定のモデルを現実に応用すると危険(仮定も結果も限定されているため)
ということですが、そうでしょうか?
すべての人を幸福にすることなんて現実的には難しいので、
特定のグループにしわ寄せが行ってしまうのは仕方が無いことです。
この酌量は経済学とはまったく別の問題になりますが。
簡単に言うと、危険だから適用出来ないというのならば、
なにもしないでいいのか、ということ。
・すべての要素をからめて政策決定を実践するために経済的思考をみにつける
じゃあ、学問的に経済学が終わっていないとして、繰り返しになってしまいますけれど、
やはり経済学理論をきわめる動機としてはどうかな、と思うわけです。
すべてとは言いませんが、なんの意味があるんだろう、という論文が多数あるのも
否めない気がします。知り合いにアメリカの大学で学んでいる友人がいる人がいますが、
そこで学ぶ協力ゲームは公理の組み合わせ論だそうです。
(どこかのスレでケンカに発展しそうなのがあったけど)
そういう話を聞くと、ほとんど経済学的思考パターンすら学んでなさそうですよね。
ま、短くまとめちゃえば、たいそうなことをいわずに、地道に研究しながら、
学部生の教育もしっかりやろうよ、ということですかね?
43 :Gerard Debreu[Gerard Debreu]:2001/02/07(Wed) 04:47
>簡単に言うと、危険だから適用出来ないというのならば、
>なにもしないでいいのか、ということ。
「なにもしないでいい」ということを導くとは思いませんが。
狭義のモデルが覆い切れてないものを、クルードでいいから経済学的に統合する
思考力が必要だ、ということです。
たとえばビジネススクール(の経済学)ってのはそうゆうことをやる所だと思いますが。

>やはり経済学理論をきわめる動機としてはどうかな、と思うわけです。
>すべてとは言いませんが、なんの意味があるんだろう、という論文が多数あるのも
>否めない気がします。
何にせよ、物事の99%はクズです。しかし、クズの蓄積こそがブレイクスルーを生みます。

なんかまたくどくなってきた。
2chで「15chで経済学自体を批判するとヒステリックになって攻撃してくる」
ってかかれてたけど、多分私のことね。
44 :新世紀名無しさん:2001/02/07(Wed) 06:48
>やはり経済学理論をきわめる動機としてはどうかな、と思うわけです。
>すべてとは言いませんが、なんの意味があるんだろう、という論文が多数あるのも
>否めない気がします。

あのね、学問というのは漸進的に発展していくものなの。たまに天才が現れて
飛躍的に発展させることがあるけどね。これは経済学にも十分あてはまる。だ
から、レフリー付きジャーナルに載った論文を「意味がない」と近視眼的に評
価するのは、アカデミックぺーパーの評価方法としては完全に誤っています。
意味がないと思われていた理論論文を土台に意味のある論文が出てくると言う
ことがあるんですよ(ここの辺りはDebreu氏と同じ意味でとってくれていいで
す)。

また、意味のない論文が多いというのであるなら(それで経済学に失望したり
するなら)、あなたが「意味のある」論文を書けば済む問題でしょう。おそら
く、今の経済学は終わっているどころか、全然発展途上です。意味のある論文
を書くのは十分可能に思えます。人の研究を意味がないと断じ、経済理論を学
ぶインセンティブがないというのはこれも完全に誤っていると言わざるを得ま
せん。

あとここでいう論文とは、『論座』とか『世界』とかの業界紙に載っているも
のをさしているものではありません(言わずもがなのことでしょうが)。
45 :42:2001/02/07(Wed) 11:56
>あのね、学問というのは漸進的に発展していくものなの。たまに天才が現れて
>飛躍的に発展させることがあるけどね。これは経済学にも十分あてはまる。だ
>から、レフリー付きジャーナルに載った論文を「意味がない」と近視眼的に評
>価するのは、アカデミックぺーパーの評価方法としては完全に誤っています。
>意味がないと思われていた理論論文を土台に意味のある論文が出てくると言う
>ことがあるんですよ(ここの辺りはDebreu氏と同じ意味でとってくれていいで
>す)。

それはわかっています。
ただ、もうすこし一般市民のレベルまで「経済学」の実態を
わかるように解説する努力をするというのはどうなのでしょうか?
たとえば、現実に直結させるよりも思考プロセスそのものが重要であり、
経済学はまだまだ現実を説明できるほど成熟していない、と。
日本では、あまりにも経済学者と「称して」、経済学の有用性を高らかに
唄う先生方が多いですよね。かならず現実に役に立つ、また立てるべきと。
しかも、そういった動きを経済学会は、迷惑に捉えているというか、
相手にしてないです。経済学に関する見解が混乱している野ではないでしょうか?
きちんと、一つ一つ地道に対応してゆく必要がありそうですね。
断っておきますが、私はあまりに経済学に「真に」携わっている人が、
経済学に期待する人、過剰に宣伝する人を看過しているのが気になっているので、
考え方を聞いてみたかっただけです。

>また、意味のない論文が多いというのであるなら(それで経済学に失望したり
>するなら)、あなたが「意味のある」論文を書けば済む問題でしょう。おそら
>く、今の経済学は終わっているどころか、全然発展途上です。意味のある論文
>を書くのは十分可能に思えます。人の研究を意味がないと断じ、経済理論を学
>ぶインセンティブがないというのはこれも完全に誤っていると言わざるを得ま
>せん。

某関西系国立大の先生が教科書で同じようなことを言ってましたね。
でも、きっとそのとおりなのでしょう。
46 :ドラエモン:2001/02/07(Wed) 12:03
叩かれる可能性高いことを覚悟して、一言。

「経済学」と「経済政策and/or現実経済」の緊張関係って、どちらかの陣営に立て籠もっ
たまま論じてもあまり意味はないと思う。私は金融屋のエコノミストだから、最近ここに
増えている本物のアカデミックな人たちから見ればしょうむない仕事しかしてない。
それでも不十分なデータをもとに何らかの判断(予測だったり政策対応だったり)しなけ
ればならない立場に追い込まれた時に、真剣に使える道具は何かを考えざるを得ないとい
うことが「緊張関係」なんだと思う。日本のアカデミックな経済学の水準がことさら低い
とは思わないが、なんらかの責任ある立場(僕らだって投資家に対してはある種の責任を
負っている)で感ずる緊張感を欠いていることが、学問をイマイチつまらなくしているよ
ように思える。
47 :36:2001/02/07(Wed) 13:12
>どらえもんさん
現場には知的緊張がない、という意味で37・38を引用したのではないので、
気分害したら、どうも.

私の「この問題をアカデミズム対(その他の)経済論者といった2項対立として
把握して真剣に論じても仕方ない」という見解は
28のすりらんかさん、25のDebreuさんと共通する点があるかと思います.
日本の経済学での状況を文芸批評の状況とほぼ共通するものがある、と考えて
東を引用しました.
ところが真剣に論じてるように見える方もいて、それは
アカデミズムサイドからの典型的見解として44さんの中に窺えます(44さん個人が
本当に持ってる見解とはおそらく違うのでしょうが).
48 :36:2001/02/07(Wed) 13:13
ところがどのカキコもはっきり指摘してない点が一つあります.それは
問題の根源は「経済学」にあるのではなく、「日本語」あるいは「日本の経済学」に
あるのではないか?という点です.私はそれに注意を喚起したい.
無用な2項対立の背後にもっと考えるべき問題があるのです.
もっと言えば、日本の哲学翻訳用語がさっぱり訳わからなくて、むしろ文芸批評が
よく読まれていたのと同様に、経済学の訳語や思考方法がどうもスムーズに
たくさんの人にわかりにくくなってる、という現実があるように思います.
痛快経済学や中谷マクロ・村上龍のシリーズが売れ行きを伸ばしたり
テレビに出るエコノミストがウケるのはアカデミックな喋り方に拘らないから、
だと思います.この辺が欧米のように日常感覚と経済学的思考がそれほど大きく
ずれてない国の事情と大きく異なる点です.

そういう意味で、山形ひろおの翻訳・スタイルは画期的だと思うのですが.
(単純にいい、というわけではないです.ただ勘がいいと思う.)
49 :プロボーラー:2001/02/07(Wed) 15:26
この辺のテーマは私にとってライフワークとしての経済学とライスワークとしての経済として深く関わるところなのでコメントを控えていたのですが、学問上の「緊張感」というものをどの程度理解した上で紙を書いたり、モノを読んだりするのか
というところが重要だと思い筆をとる次第。金融政策や財政政策を考えるときに特定個人の顔が「例えば近所のじいちゃん」浮かぶ連中は未熟な役人だろうし、まったく浮かばない連中は不熟な役人だというのが私の理解です。
多くの情念やら怨念やらが入り混じった経済「社会」を「科学」しようという大それた学問であるかぎり、経済学はこのような運命を持っていると思います。
そのような意味で、19世紀後半から20世紀前半に、多くの経済学者が哲学雑誌に寄稿したもの「例えばハロッドの功利主義の研究等」をたどったり、マルクスやエンゲルスが「少ない前提(仮定)」で理論を展開してすばらしくフルーティな結論を導出しているという軌跡を振り返れば、経済学が無意味だというようなオチは、「勉強が足りないんじゃない」という小生の先輩の一言に帰すると考える次第です。
私は昔事務局として、すばらしい先生方(含む金融エコノミスト)を招いて研究会を何回か開いたことがありますが、良すぎる先生と悪すぎる先生は決めが良く、普通の先生は迷いがあることが傾向としてありました。
ただ良すぎる先生は、決して単純なのではなく、相克としての学問の限界を了解した上で「他の事情に等しければ」と言っているわけです。この一言のもつ意味は理論研究であれ、政策研究であれ決定的です。いいかげんな人は、「他の事情」をツメずに放言しているだけでしょう。
50 :44:2001/02/07(Wed) 18:22
>>45
>ただ、もうすこし一般市民のレベルまで「経済学」の実態を
>わかるように解説する努力をするというのはどうなのでしょうか?

努力している研究者の方はたくさんいます。残念なことに、そうした努力が
無惨なくらい実ってないだけです。例を挙げましょう。日本経済新聞にある
「やさしい経済学」や「経済教室」という連載ものがあります。たまに際物
的な人物も登場しますが、この連載もので経済学研究者が一般市民に対して
経済の実体/メカニズムの解説を試みています。しかし、あの欄はやはり経
済学に少し馴染んでない方には難しく、壁があるのも事実でしょう。

ではその壁とはなにか?一つの理由として、48のかたもおっしゃられている
ように、あの独特な用語にあります。まぁ、佐和隆光さんが20年くらいも
前にいってることですので、何を今さらと言うかたもいるかと思いますが、
実は重要な問題です。ただ、この難点を克服するのには一般市民の方が経済
学を学ぶというコストを払って貰うより解決の鍵を見出せないくらい絶望的だ
と私は思います。何か良い案がある方はいませんか?

まぁ、以上のモノは現時点で思い当たるものです。なにかコメントがありました
らよろしくお願いします。

あと、もちろん現実経済に興味のない人もいます。こちらの方は、自分の研究
結果を誰かが勝手に現実経済の解明に役立てるなりなんなりしてくれといった
ものだと思いますが、これはこれで別に責められるべき態度とは私は思いませ
ん。

>しかも、そういった動きを経済学会は、迷惑に捉えているというか、
>相手にしてないです。

そういう学会の存在を知りませんが、一体どこかなぁ。個人として、
45さんのおっしゃる態度をとる方はいると思いますが、「学会」とし
てそういう態度をとるというのはちょっと考えがたいですね。
51 :新世紀名無しさん:2001/02/09(Fri) 03:38
レス見ててもわかるけれど、こういうネタになると、
とたんに書かなくなる人って出てくるよね。
きっと見下している学者またその予備軍なんだろうな。
52 :新世紀名無しさん:2001/02/09(Fri) 04:03
>>51

たぶん見当違いでは。
だって、44さんとかGerard Debreuさんって学者でしょ。
53 :新世紀名無しさん:2001/02/09(Fri) 08:05
>52
言わぬが花です(藁)。
54 :こん:2005/02/13(Sun) 22:04
方法論的個人主義ってなんですか?誰か教えてください。。
55 :名無しさんの冒険:2005/02/13(Sun) 22:45
>>54
質問スレでなく、わざわざ深く沈んでいたこのスレを上げて質問する理由は何?
他スレを沈めたいの?
56 :名無しさんの冒険:2005/02/13(Sun) 22:47
>>54
なんというか、
「社会的な現象はすべて個々人の行為を積み重ねたものに他ならない、とする立場」
って感じじゃないすかぁ。
57 :名無しさんの冒険:2005/02/13(Sun) 22:50
>>55
>>18から「方法論的個人主義 」の話題になってるからでは?

つーかDebreu氏は死んだから直接聞いたほうがいいよ
58 :ドラエモン:2005/02/14(Mon) 13:47
>>54

普通の定義は「社会現象は、それを構成する基本単位である個人の行動に還元される」
というものであり、方法論的集合主義と対置される。

しかし、実際に経済学でいう「個人」というのは、別に生物学的個体としての個人に限定
されないことに注意。たとえば、「消費者」と「家計」は同義に扱われるが、前者が生物
学的個体を意味する語感が強いが、後者は明らかに複数の人からなる集団であるというの
が一般的な理解だろう。つまり、哲学的な議論はともかくとして、経済学での実際の使用
方法をみれば、「社会現象を、それを構成する意思決定主体の行動に還元する」というの
が、実際の「方法論的個人主義」だと思う。要するに、複数の意思決定主体の相互作用で
社会現象が記述できるという、極めて当たり前のことを言っているだけ。

もちろん、時により強い意味を持たせる場合もあるのは事実である。たとえば企業を独立
した意思決定主体と見なさず、株式所有者の意思を反映するだけのものと見なすこともあ
る。さらに家計を、それを構成する生物学的個体の集合として捕らえ、それらの個体の相
互作用まで明示的に考えれば、厳密な意味で「社会現象は生物学的個体の意思決定の結果」
とすることも可能ではある。けれども、プリンシパル・エージェント問題にみられる様に
代理人は代理人なりの独立した意思決定主体と考えるのはごく普通であり、企業を株主の
影のように考え、意思決定主体としては無視するのが当たり前というわけではない。